第4回ハナショウブ小説賞 エッセイ部門 入選作品
| タイトル | 著者 |
| 職場体験で得た学び | 梅月誠 |
| スムージー | 大月光 |
| 楽しいくる | 風 |
| 父の背中、小さくなって | 葉月歩 |
| 長生きして、ごめんね | 太田ユミ子 |
| 花弁は落ちれど、咲き誇るる | A_DUBBING |
| 「ぴょん、と笑った母」― 介護の時間に見つけた“生きる力” ― | 岡昌子 |
| 『普通の三崎』が言ったこと | 野間栄子 |
*順不同
職場体験で得た学び(梅月誠)
コロナ禍の影響で学校行事の簡略化が進み、教員の働き方改革の一環から元に戻らずに迎えた職場体験は、たったの一日しかなかった。第一希望の職場に行くことが叶わなかった私の体験先は老人ホームだった。老人ホームについて最初に抱いた感想は、老人ホームも学校と変わらない、ということだ。朝の会では今日のお昼ご飯の献立を確認し、誕生日を迎えたおばあちゃんには「ハッピーバースデ―トゥーユー」の合唱を贈る。自由時間の時も、一人で黙々と作業することが好きなおじいちゃんは塗り絵や計算ドリルをしていて、誰かと話すことが好きなおばあちゃんは、私と一緒に職場体験に来た男の子を捕まえて、たわいもない世間話をしていた。いつもは教室の中でくだらないことを言い合って笑っている友達が、かしこまって変な日本語を使いながらおばあちゃんと話す姿は、なんとも愉快だったのは口が裂けても本人の前では言えない。かくいう私は、認知症のおばあちゃんに大きな声を出されて怯えてしまい、ヘルパーさんに「大丈夫よ」と優しくフォローされてしまった。
「ずっとこういう仕事をしているとね、認知症で急に大きな声を出しちゃうおじいちゃんやおばあちゃんも、受け入れることができるようになったのよね」
そう言ったヘルパーさんの目は本物だった。こういう人ばかりがここで働いているから、この老人ホームはとても生き生きとしているのだと感じた。
お昼の時間になると、配膳を手伝ってほしいとヘルパーさんに言われ「これはあの赤い服を着たおばあちゃんに運んであげてね」と指示された人の元へお盆を正確に運んだ。献立自体はみんな同じだが、私が普段食べるものと同じようなご飯や、ペースト状になっているご飯など様々で、一人一人に合った状態で提供しているそうだ。すべての利用者さんのことを知り尽くしていると言っても過言ではないわね、と胸を張るヘルパーさんは、誰よりも頼りがいがあるように見えた。
配膳の手伝いを終えてしばらくした時。
「そろそろ質問タイムにしようか。質問には僕が答えるよ」
半袖半ズボンで入浴の介護をしていた男のヘルパーさんが、タオルで汗を拭きながら私達にそう言った。
「どうかな。ここの雰囲気は」
「働いている皆さんがとても優しくて、おじいちゃんやおばあちゃんとの距離も近くて……。アットホームな感じがします」
「そうか、それは良かった。僕はね、おじいさんやおばあさんの事が大好きなんだ。ここの利用者さんたちは、面白い話をたくさんしてくれるんだよ。それが一番のやりがいに繋がっているんだと思う」
その一言を聞いて、はっと息をのんだ。つい先日まで、第一希望の職場に行けなかったことをくよくよ言っていた私を、呪い殺したいような感覚に襲われた。きっと、全ての仕事の原点はこういうところにあるのだろう。
「介護の仕事にどのくらい興味を持ってくれているのかは分からないけれど、今日の体験を通して少しでも、いいな、って思ってくれたらうれしいな」
この仕事は人との関わりが密接だが、どう抗っても縮めることのできない年齢という壁がある。世代が違えば根本的な考え方が異なる場合もあるし、お互いに理解できないことが多々あるだろう。けれどここで働いている人達はとても楽しそうだし、おじいちゃんやおばあちゃんも生き生きとしている。それは、基本的なことだが良い人間関係の構築を大切にしているからではないかと思った。「老害」という心ない言葉もあるが、それはきっと世代の壁で、どのように昔の世代と今の世代が歩み寄るかが鍵なのではないか。その模範例としてあるのがここのような老人ホームなのだと思う。
けれどこの思いを上手にまとめることができなくて、返すことができたのはありきたりな一言だった。
「大切なお仕事だなって、そう思います」
「ありがとう」
ニコッと笑いかけてくれたヘルパーさんに私も同じような笑みを返した。
その日の帰り道は、利用者さんやヘルパーさん、他にも色んな人の笑顔が私の頭の中で咲いていた。
スムージー(大月光)
死にたいんです。
精神科医である私が日常的に聞く言葉だ。
その言葉を聞くと私は精神科医という仮面を被る。
なぜその患者が死に向かってしまうのかその理由を探るべく、問診を開始し、必要に応じて休職の診断書を発行し、処方箋を出す。患者を死なせないのが私の仕事だからだ。
しかし、一度仮面を脱いでしまえばどうだろうか。私自身、なぜ人は死ぬべきでないのかという問いにはっきりとした答えは持ち合わせてはいない。もちろん、私が死にたいと思っているわけではない、ただ漠然と生きている。漠然と生を享受しているだけであって確固たる理由があって「死なない」というわけではないのだ。
先日、職場のテラスでスムージーを飲みながらふと思った。人生はスムージーではないかと。
私にとって、生きることは総じて幸せだ。不幸だったことも、悲しいことも、辛いこともあった。死にたいと思うこともあった。
人生をスムージーに例えるのなら、私の人生は甘いイチゴ、辛い唐辛子、酸っぱいレモンをミキサーにかけた味わい深いものであり、今もそれに舌鼓を打ちながら飲んでいる。
ただ、もし私に出されたスムージーがとんでもなく苦かったらどうするのだろうかと私は思うのだ。飲むことを拒否することは「いけないこと」なのかと。
精神科では、生活歴といって最初にこれまでどんな人生を歩んできたのかを聞く。こちらが耳を塞ぎたくなるような辛い人生を歩んでいる人も多い。
彼らに「死ぬべきでない」と諭す権利は私にあるのだろうか。その迷いを精神科医の仮面で封じ込めながら診療にあたっている。
私自身が死なない理由になればいいとも思った、私が彼らのスムージーにシロップとして入り、少しでも甘くできればいい。と。しかしそれは傲慢ではなかろうか。私はあくまで医師であって彼らの人生そのもの全てを背負うことはできない。恋人にも友人にもなれない。
だから、私は患者の人生のスムージーを飲むことにしよう。今まで何が辛かったのか、どういう思いをしたのか、どういう選択をしたのか。どういう結果になったのか。今まで以上に詳細に聞くことにしよう。「この酸っぱさはあの時のライムだね」、「この辛さはあの時の唐辛子だね」と一つ一つ確認しながら飲む。苦さも辛さも一度混じれば区別が難しい。目の前のスムージーになにが入っているかを当てることは困難だろう。だから私は飲んで味わい区別する。
死ぬことに意味を見出す人は往々にして生きる意味を失っている。だから私は意味を探す手伝いをする。苦味にも辛さにも意味はある、それは幻想かもしれないしそれもまた傲慢なのかもしれない。しかし、そう思えたのなら生きることにつながっていく。
ほんの少しだけ納得した私はスムージーを飲み干し、白衣を羽織りなおし、いつもの診察室に戻った。
楽しいくる(風)
別に介護士として特別働きたかったわけではない。ただなんとなく始めた仕事。だけど気付けば十年経っている。
元々、困っている人につい手を差し伸べたくなる性分ではあると思う。介護士とはその延長線だ。介護、というのは大変な仕事だとあちこちで耳にする。シモの世話、食事の手伝い、お風呂の手伝い、車いすなどへの移乗。加えて不定休で夜勤もあり。身体的、精神的にも結構『クる』仕事だからやりたくないと。
友達に介護の仕事をしている、と言えば「凄いね」と皆口々に言う。言うほど凄いことかなあ。感覚が麻痺していると言われればそれまでだが、私は別に二度と働きたくない、と思うほど苦に感じたことはあまりない。
勿論働いていれば色々ある。叩かれ、蹴られ、暴言を吐かれ。あざが出来ることなんて日常茶飯事である。こういう悪い部分の話だけををすると、大変だと思われるかもしれない。
でも同じくらい良い部分もある。毎日一度は必ず聞く「ありがとう」の言葉。他の会社だとそうはいかないだろうと思う。同じだけ「ごめんね」を聞く。だけど後者はあんまり聞きたくないと思う。私は好き好んで介護という仕事をしているから、謝る必要はないと思うのだ。
仕事をしていると色んな相手と出会う。歯が無いのに、にやあって笑うから歯茎が剥き出しになる人、杖を突かずに引き摺って散歩させる人、マツケンサンバをノリノリで踊れる人、カラオケがめちゃくちゃ上手い人。人によって個性は様々だ。誰一人として同じ人はいなくて、そういう人たちに関われるのは楽しくて仕方ない。
とある漫画の中で「楽しいがきてしまう」という一文がある。介護という仕事はしんどくて、苦しくて、どうしようもない時はある。今日は何もできなかった、そんな不安を抱えて翌日仕事に行くこともある。だけど、そういう日に限って「今日はアンタが来てくれて嬉しい。会えて嬉しい。だいすきなんよ」なんて言われるから思わず泣きたくなってくる。そうだ、この瞬間のために介護をやっているんだなと強く思う。嫌なことと同じだけ楽しいことがある。楽しいことがきてしまう。だから辞められない。辞めようって選択肢がなくなる。だからきっと十年続けてこれた。どこまでも利用者ありきの自分なのだと思う。
介護という仕事が天性とは思わない。十年積み重なった今があるからこそ、やりがいを強く感じている。勤めてきた年数が、今の自分を作ってくれていると思っている。一般的には大変だと言われる仕事だけど、私にとっては大変の後ろに楽しいがくっついてくることを分かっているから。次の十年後、同じ言葉が紡げるように、自分はこれからも介護を続けていく。
父の背中、小さくなって(葉月歩)
父の背中が、こんなにも小さくなっていた。
脳梗塞で倒れて半年。週に三度、仕事帰りに実家へ寄って父の入浴を手伝うようになった。母は腰が悪い。父は一人では湯船に入れない。自然と、私の役目になった。
「悪いな」
父はいつもそう言う。浴室の椅子に座る父の背中にタオルを当てた時、手が止まった。
細い。肩幅が狭くて、背骨が浮いている。触れるのが怖いくらい、頼りない背中だった。
子どもの頃、私はよく父に背負われた。夏祭りの夜。人混みを父の背中から見下ろした。あの背中は山みたいに大きくて、どこまでも歩いていけそうだった。父の肩に手を回しながら、私は無敵だと思っていた。
「どうした」
父の声で、手を動かす。背中を流しながら、父の肩が震えているのに気がついた。
「寒い?」
「……いや」
間があって、父が言った。
「情けねえな」
その一言が、胸に刺さった。
父は弱音を吐かない人だった。高校で教師をしていて、家でも背筋を伸ばして生きてきた。「男は泣くな」とか「弱音を吐くな」とか、そういうことをよく言っていた。そんな父が今、息子に体を洗ってもらっている。
風呂から上がって、居間で麦茶を飲んでいる時、父が言った。
「明日から、デイサービスってとこに行く」
「そうなんだ」
「リハビリもできるらしい。母さんも楽になるだろ」
父は窓の外を見ていた。私は何も言えなかった。
次の週、昼休みを少し延ばして、父のデイサービスを覗いてみた。
中に入ると、明るい声が響いていた。車椅子のお年寄りに、スタッフが笑いながら話しかけている。奥の方では何人かで風船バレーをやっていた。
その輪の中に、父がいた。
笑っていた。隣のおばあさんと何か喋りながら、照れくさそうに笑っている。あんな顔、家では見たことがない。
帰りの車の中で、父は饒舌だった。
「今日な、風船バレーで三点も取ったんだぞ」
まるで少年みたいだった。
家では「情けない」と言っていた父が、デイサービスでは笑っている。弱さを見せてもいい場所。完璧じゃなくてもいいと思える場所。父にとって、そういう場所ができたんだと思った。
その夜の入浴介助。父の背中は相変わらず小さかった。でも、何だか前より温かい気がした。
「父さん」
「ん」
「ありがとうな」
「何が」
「色々」
父は何も言わなかった。でも、背中が少しだけ動いたような気がした。
父の背中は小さくなった。それは事実だ。でも、それは悲しいことじゃないのかもしれない。
介護って、親の知らなかった顔を見つける時間なんだと思う。強がっていた父が、ようやく力を抜いた。それだけのことだ。
いつか私も、誰かに背中を流してもらう日が来る。その時、父みたいに笑っていられるだろうか。
分からない。でも、一つだけ分かったことがある。
強いってことは、弱さを隠すことじゃない。弱くなった自分を、そのまま受け入れることなんだ。
父の小さな背中が、それを教えてくれた。
長生きして、ごめんね(太田ユミ子)
義父の葬儀の後、義母はぽつりと言った。
「私は、家で死にたい……」
十年前、九十二歳で亡くなった義父は最後の一年を施設でお世話になった。当時九十歳の義母は身の回りのことは何とか一人で出来るが、お風呂はもう一人で入るのは無理だった。
日帰り入浴もヘルパーさんに来てもらうのも、昔気質の義母は嫌がった。誰が義母をお風呂に入れる? 足が不自由な夫は無理だ。京都に住んでいる義姉は私より一回り年上で腰痛や膝痛を抱えている。一人っ子の一人娘は東京で暮らしている。私しかいなかった。
何で私――気が重かったが、やるしかない!
「お義母さん、今日は私とお風呂に入りましょう」
「一人で入る。自分で洗える」
言い張る義母を夫と説得してお風呂へ。義母に椅子に座ってもらい、最初に髪をシャンプーする。次は体。スポンジにボディソープをたっぷり付けて背中から洗ってゆく。義母の体を洗いながら、私は義父母と同居してからの日々を回想していた。
一九九五年一月十七日阪神淡路大震災―私が住むアパートは無事だったが、同じ町内に住む義父母の家は全壊した。一年後、家を再建し義父母との同居が始まった。
義母とは嫁と姑によくある諍いもあったが、義母は一人孫である娘にとてもよくしてくれた。娘を義母にまかせて、よく夫と二人で出かけたものだ。かわいいとは言え、幼児の世話は大変だっただろう。おかげで子育てのストレスから開放された。
夫とケンカして部屋にこもると、いつも義母が来て、
「なんか、ようわからんけど、ごめんね」
夫の代わりに謝ってくれる。なんか、ようわからんけど、夫を許してしまう。それに義母は些細なことまで「ありがとう」と笑顔で言ってくれる。義母の「ありがとう」と「ごめんね」で家族は丸く収まり、私も家族も幸せだった。義母に恩返しする時がきたのだと思った。
お風呂から上がり、義母の髪をドライヤーで乾かして終了。義母からほのかに石鹸の香りがした。
「ありがとう。気持ちよくなったよ」
初めてをやり遂げて私も気持ちよかった。義母が照れくさそうに、
「また、一緒に入ってくれる?」
うなずくと、義母は笑顔になった。
義母とお風呂に入るようになって、四年が過ぎ、義母は九十四歳になった。要介護2になった義母を、私がお風呂に入れるのはもう限界だった。夫と相談して、訪問入浴介護サービスを受けることにした。義母も承諾してくれた。義母は両手を合わせて、
「今までお風呂に入れてくれてありがとう。長生きしてごめんね」
その言葉で介護の日々が報われた気がした。
初めての入浴サービスの日、男性二人、女性一人のヘルパーさんが浴槽を持って来てくれた。義母は検温して血圧を測ってから、体にタオルを乗せたままで浴槽につかり、頭から爪の先まで丁寧に洗ってもらった。
最初、緊張していた義母だったが、途中から気持ちよさそうだった。タオルもバスタオルも持参してくれたので、洗濯も楽だった。これだけのサービスを受けても、一割負担で千五百円ほどだった。もっと早く利用したらよかったと後悔した。
令和元年六月二十九日、義母は自宅で眠るように亡くなった。前日に五回目の入浴サービスを受けたばかりだった。
亡くなる一ヶ月前から義母は水以外なにも受け付けなくなった。二日に一度、車椅子に乗って近所にあるかかりつけの医院に行って点滴をしてもらっていたが、
「これ以上の点滴はかえって体の負担になります」
医師の判断に従った。それから直ぐに義母はベッドから起き上がることが出来なくなり、要介護2から要介護5になった。
寝たきりになった義母は急激に痩せて体全体が小さくなった。一日中、うつらうつらしているか、目を開けても焦点が合っておらず、呼びかけても何も答えなかったのだが――。オムツを替えた後、義母の体を拭いている時だった。義母はふいに私の手をギュッと握った。そして力のある眼差しで私を見て、「ありがとう」と、言うと力尽きたように目を閉じた。
――三日後に義母は亡くなった。
花弁は落ちれど、咲き誇るる(A_DUBBING)
私は介護施設で働いている。
毎日たくさんのお年寄りと時間を共にしている。
施設で働いてわかったことがある。
おじいさんは山へ芝刈りに行かないし、おばあさんは川へ洗濯に行かない。
みんな私たちと同じように笑い、悩み、毎日を必死に生きている。
老いという逃れられない時間の川に浮かび、どんぶらこ、どんぶらこと、たくさんのなにかを削られながら川下へと下ってゆく。
時には濁流にのまれボロボロに傷つき、時には同じ流れにのった同志と身を寄せ合う。
始めは角のあったものも、流れるうちに丸くなる。
今まで出来ていたことが出来なくなる。
突然病に侵される。
ある日突然、またはじわじわと、試練の壁が立ちはだかる。
そんな現実に打ちのめされて、多くのことを諦めてしまった方たちもたくさん見てきた。
ただ私は、自身が古着や革靴、絵を描いたりすることが好きなことから
“経年劣化による魅力こそ、個性そのものではないのか。人もまた例外ではなく”と、考えている。
出来ないことにより、出来るようになった表現が、より一層その人間に深い色を重ねる。
油彩のように積み重ねた全てが、ひとつの個として強烈な輝きへと成る。
昔から絵を描くことが好きだった方が、手が不自由になり上手に描けないことを悲しんでいた。
私からしてみれば、それは、なにも悲観することなどなく、新しい自分との邂逅である。
私はその方に対して、
「手が思い通りに動いていた時は、描きたくても今みたいな絵は描けなかったんですよ。手が思い通りに動かなくなっても、それでもペンを持ったから、今新しい絵を描けてるんです。そこから生まれた新しい表現の形は、とても素敵な輝かしい個性で、その個性の前では、上手い下手なんて些細なことです」
そう伝えると、「なんだか幸せな気分になったわ」と笑ってくれた。
その後もたくさんの絵を描き、私によく見せてくれる。
時には私が絵を描き、「これに好きな色を塗ってください」と伝えて、二人で一つの作品を作ったりしている。
人が皆持っている個性という花は、時が経つと花弁が落ちてしまうことがある。
しかし、どれだけ花弁が落ちようとも、花は花である。
全ての花弁が落ちたとしても、別の形や色となり、再び咲き誇ることができるのだ。
その姿は、以前とは違うかもしれない、理想とはかけ離れているのかもしれない、それでも咲き誇るのだ。
その姿こそが、今の自身の輝きであり、美しさなのである。
「ぴょん、と笑った母」― 介護の時間に見つけた“生きる力” ―(岡昌子)
母の病室には、いつもやわらかな光が差し込んでいた。
大腸がんの手術を終え、半年間の介護生活が始まった。朝は野菜ジュースを作ることから始まり、母の笑顔を見ては少し安心する毎日。
「今日のパジャマ、かわいいね」と声をかけると、母は照れくさそうに笑いながら「ぴょん」と言った。ウサギ柄のパジャマに合わせて、冗談めかして返すその声が、妙に幼くて、愛おしかった。
病と向き合いながらも、母はいつも「家族が楽しく過ごせるように」と気遣っていた。父が仕事から帰る時間には、疲れが吹き飛ぶようにと、少しでも明るい色の服を選ぶ。
私は、そんな母の“おしゃれ心”を見て、「人は最後まで自分らしく生きようとするんだ」と気づいた。
母が入院していたころ、私はよくお見舞いに行った。
それでも仕事に追われ、心はいつもせわしなかった。
母のベッドのそばで話しているうちに、気づけば私は、そのままベッドの上で横になってしまうことがあった。
「ちょっとだけね」と言いながら、十五分ほどの昼寝。
それでも目を覚ますと、母はいつもやさしく微笑みながら私を見ていた。
そのまなざしは、まるで小さな子どもを見守るようだった。
本来なら、病院のベッドで眠るのは母の方だ。
それなのに、介護に通う娘の私が眠り、母が見守ってくれる。
立場が逆転しているのに、不思議とあたたかく、涙がにじんだ。
母は、自分の体調よりも私の疲れを心配してくれる人だった。
「まあちゃん、無理しないでね。」
そう言って、私の手を握る。その手は少し冷たくても、いつも安心するぬくもりがあった。
病室の窓から差し込む午後の光、消毒液のにおい、シーツのしわ。
そのすべてが今では宝物のように思える。
介護は正直、きれいごとばかりではない。
夜中のトイレ介助で眠れない日も、薬の副作用で母が苦しむ姿に、涙が止まらなかった夜もあった。
それでも、「ぴょん」と笑う母の一言が、すべてをやさしく包んでくれた。
介護を通して学んだのは、「生きることを支えるのは、特別な医療や福祉の仕組みだけではなく、“ことば”や“まなざし”だ」ということ。
介護の現場には、たくさんの「ぴょん」がある。
小さなユーモア、少しの気づき、ささやかな希望。
それらが、誰かの明日を生かす力になると、今も信じている。
『普通の三崎』が言ったこと(野間栄子)
高校時代、私の学年には三崎という名字の男子が三人いた。
一人目の三崎は『かっこいい三崎クン』である。この三崎クンはイケメンのモテ男で、私の親友はこの三崎クンに恋をしていた。毎日毎日、「三崎クンが英語の時間に音読した」だの「三崎クンがファンタを飲んでいた」だの、彼女は私に色々な話をうっとりとした口調で教えてくれるのだった。
二人目の三崎は『面白い三崎さん』であった。私のような不細工な女子にも優しい、ナイスガイであった。文化祭など、普通の人には思いつけないようなアイデアを考えつく、アイデアマンでもあった。
三人目の三崎は『普通の三崎』と呼ばれていた。線の細い、繊細な感じの三崎であった。彼はいつも教室の片隅で静かに本を読んでいる、影の薄い男の子だった。おとなしく目立たない感じの三崎、それが彼であった。
「ねえ、栄子ちゃん知ってる? 『普通の三崎』がテレビに出てるよ!」
卒業後、30年以上経ったある冬の日だった。高校の同級生からそんな話を聞いて、私は驚いた。『カッコいい三崎クン』でもなく、『面白い三崎さん』でもなく、『普通の三崎』がテレビ?
どうやら、高校を卒業後『普通の三崎』はお医者さんになり、大きな医療法人で内科医として働いているらしかった。そして今のコロナ禍で、テレビの向こうの『普通の三崎』はコロナの情報を私たちに教えてくれているのであった。
『緊急事態宣言は無意味だ、とおっしゃいますが……今、医療の現場は逼迫しております。僕たちは防護服を着て、24時間体制で患者さんの治療に当たっておりますが、正直、限界は近いです。僕は20年以上医者をやっていますが、こんなことは初めてです』
画面の向こうの『普通の三崎』は私たちに訴えていた。医療機関はフル稼働で動いている、大勢の医療従事者が使命を果たすために頑張っている、だから緊急事態宣言に協力してほしい、と『普通の三崎』は私たちに訴えた。
連日の激務のせいか『普通の三崎』の顔色は悪かった。日本全国に『普通の三崎』のような医師が一体何人いるんだろう、と私は思った。
『でも、三崎先生』
若手のコメンテーターが口を挟んだ。派手なネクタイを締めて、自信たっぷりな様子でコメンテーターは言った。
『経済活動を止めるのって……俺はどうかなーって思うんですよ。色々配慮って言われても……ぶっちゃけ寿命とか、あるじゃないですか、寿命で仕方がない場面もあると思うんですよ。それなのに社会全体の活力を削ぐんですか?』
一瞬の沈黙の後、画面の中の『普通の三崎』は口を開いた。『普通の三崎』はテレビ用の抑制された態度ではあったけれど、怒っているようだった。寿命だから見捨てろ、そういう意見に対して彼は純粋な怒りを抱いているようだった。
『無意味かどうか、やってみなくてはわかりません。でも、コロナに対しては、僕たちは少しでも前進しなくてはいけないと思います。できることがあるのに、何もやらずに人が死んでいく 社会が良いとは……僕はそんな社会が良いとは思えません』
私は何が正しいのか分からなかった。でも、何もやらずに人が死んでいく社会というのは……私も嫌だな、と思った。
実際のところ、コロナというのはどんな社会を作っていくのか、という問題を私たちに突きつけているのであった。それを選択するのは私たち普通の市民なのである。
個人的に、持病を抱える私としては……医療が、お医者さんや看護師さんといった医療従事者の方々の使命感にやっと、支えられていることに驚き、危機感を感じた。医療ってなくなったら困るよね? じゃあ医療は水道とか電気のようにインフラじゃないの? 蛇口をひねって水が出てこないと困るよね……だったら、医療の供給が途切れないように国や自治体はバックアップするべきじゃん、と私は思うのであった。
でも、私たちの日本はなんとなく下り坂で少子化で……医療にかかる必要がない人たちにとっては医療に税金を使うことは無駄、と思ってしまうのだろう。『医者は儲けている』んだから、これ以上医療の分野に税金を使いたくない、という考えの人もいるだろう。
コロナの後の世界を生きる私たちの間には、いまだに見えない分断があるように感じてならない。コロナは社会の中に様々な立場の人がいて、全員が満足して幸せになる方法というものがいかに少ないかを教えてくれたような気がする。
それでも、普通の市民の私は思うのだ。
もし誰かが「なんとしても生きたい」と強く願った時に……その気持ちに対して、手を差し伸べられる社会というものは健全な社会なのではないか、と。私は普通の市民としてその健全さを支えてもいいのではないか、と。
「あんた、いいこと言うじゃん、『普通の三崎』のくせに!」
そして、私はテレビの中の『普通の三崎』に向かってそんな風に偉そうに呟いたのであった。
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